霞亭が京都に遊学してゐた
第二年、寛政十年に霞亭の弟彦(げん)が的屋から出て来た。そして霞亭の友源瑰(げんまいくわい)と云ふものに師事した。渉筆に彦の事を叙して、「寛政戊午遊学京師、師事友人瑰源先生」と云つてある。わたくしは未だ北条氏の系譜を見ぬから、彦と惟長と孰(いづれか)長、孰幼なるを知らない。しかし霞亭は自ら彦を称して「予次弟」と云つてゐる。これは直(すぐ)次(つぎ)の弟と解すべきではなからうか。此見解は山陽が「考(適斎)以次子立敬承家」と書したのと或は合はぬかと疑はれる。但し山陽は後に既成の迹より見て筆を下(くだ)したかも知れない。霞亭が遊学したのと、適斎が霞亭の嫡(てき)を廃し、代ふるに惟長立敬を以てしたのとは、必ずしも同時ではないかも知れない。山陽は彦が既に早世してゐたので、其次の惟長を次子と称したかも知れない。源瑰は未だ考へない。要するに彦は、歿年より推すに、十五歳にして京都に来り、十九歳の兄霞亭と同居したものとおもはれる。

コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-30 01:39:34